2014年2月12日水曜日

日本モルドバ友好協会の設立経緯

ソチオリンピックが開幕しました。
公開されている画像によるとモルドバからは10人のオリンピック選手団が参加したようです。

モルドバはロシアのソチと同じく黒海沿岸地域にある国です。
私は冬期オリンピックを見ていると1998年の長野オリンピックを思い出します。
その時のモルドバのオリンピック選手はトライアスロンの選手男女2人でした。
当時大相撲の人気力士だった千代大海が開会式でモルドバの選手を先導しました。


 モルドバの選手団にはオリンピック委員会の役員が同行していましたが予算がなくてジャーナリストは来日できないといわれていました。
当初私たちは1997年にモルドバ復興支援協会を設立したばかりで旧ソ連時代に抑圧されていた伝承音楽や伝承舞 踊を復興させようという活動をしていました。

モルドバにオフィスを出していました。そこへ3人のモルドバのジャーナリストが訪ねてきてモルドバのオリンピック選手が長野オリンピックに参加するのでその様子を報道するために日本に行きたいと支援の要請を受けました。

当時、沓澤美喜が何度も日本とモルドバを往来していて、特に長野オリンピックから始まった「一国一校運動」を行っていました。モルドバと一校運動に当たった学校は信州大学付属長野小学校でした。子供達が描いた絵や民族衣装などをおみやげに何度も長野を訪問しました。

そして、ジャーナリスト達が「モルドバは独立したばかりで貧しいけれども、もし支援していただいて日本へ行くことができれば選手 達の活躍をモルドバの新聞、ラジオ、テレビで放送します。それが実現できたらモルドバの国民は自分たちの代表選手が世界の若者達と一緒に競技していることを知って励まされます。それがモルドバの国民の精神を復興することになります。ぜひ日本に行って取材させて頂きたい」と要請されたので私たちは3人のジャーナリストの飛行機のチケット代、宿泊、食事などすべての資金を用意しました。

そのようにしてモルドバから著名な新聞、ラジオ、テレビのジャーナリストが来日しました。私たちは資金が余りありませんでしたので、信州大学付属長野小学校のPTA会長にお願いしてホームステイをさせていただいただけでなく、毎日の食事、毎日の放送のためのモルドバまでの電話などすべてを無料で お願いしました。そこには当時慶応大学に留学していたユリエ・プンザルさんも駆けつけてくれました。

ユリエ・プンザルさんを私たちは当時「ユーリー君」と呼んでいましたが、とても優秀で留学を終えて帰国するとすぐにモルドバ大統領の補佐官になりました。

そんなことがあって、モルドバで何度も大統領府のユリエ・プンザル補佐官に会いに行くようになりました。そしてやがて首席補佐官のライサさんにお会いするようになったのです。現在、ライサさんはモルドバ日本友好協会の理事長であり、ユリエ・プンザルさんはモルドバ日本友好協会会長です。

私は神戸で暮らしていますが神戸のホテルで歓迎のレセプションをしました。当時まだ大阪市立大学の名誉教授浦上智エ 子先生がご健在で、3人ジャーナリストとユリエさんを宿泊させてくださいました。私は4人を神戸市が開発した「しあわせの村」で朝食バイキングに御案内しました。山間部を開発したその美しい保養施設を見てジャーナリスト達は「ここはまさしく天国です」と賞賛しました。

そのジャーナリストの一人にアレキサンドル・ゲオルギッツァさんがいました。その方が私たちに謝意を表して「私たちは一生働いてお金を貯めても日本には来ることができませんでした。でもこのようにして日本に来ることができて本当に嬉しいです。私たちは日本のすばらしい文化や文明を見ましたので、モルドバに帰ったら、きっと、日本の文化をモルドバに、モルドバの文化を日本に発信したいです」と約束してくださっ たのです。

そのような経緯を経てモルドバ日本友好協会が最初に設立され、次に日本モルドバ友好協会が設立されるようになったのです。

アレキサンドルさんはご病気で4年前にお亡くなりになりましたけれども遺稿をタイアナ夫人がお持ちでそれをいつか本にして出版したいと考えておられます。この遺稿が本になればモルドバのジャーナリストを通して日本がどのようにモルドバと出会ったかわかるようになるでしょう。(文:沓澤正明)

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