2015年8月24日月曜日

人と防災未来センターでの思い出(2015.7.23第2日の追加)

2日の記事に記載漏れがありました。WHO神戸センターの後、日本料理店「菊地」に向かう時「人と防災未来センターの前で記念写真を撮りましょう」ということになり全員車から一旦降りました。すると、三宗司朗所長がさっと行って全員の入場券を購入して「中に入りましょう」と促されましたので、私たちは4階の震災体験フロア1.17シアターで「546の衝撃」[上映時間7]阪神・淡路大震災の地域破壊のすさまじさを大型映像と大音響で体験しました。
 
三宗司郎所長は日本有数の建築家であり工学博士であり、この「人と防災未来センター」の設計者です。ですから、きっとライサさんやバレリューさんに見せてあげたかったのです。私もはじめて入りました。ガラス細工のように見える正立方体の無窓階のこの構造物は、写真のように壁面が4段に窪んでいます。目には見えないピラミッドが先端から壁面に張り付いてそのようにくぼませているようなイメージを想起します。もし周りに近代的なビルが立ち並ぶことがあったとしても、この構造物は数千年の歴史や文化を引き継いでいる美術館や博物館と比較しても、未来に向かって永遠性を保持しながら存在を表現し続ける表現者の地位を不動にするに違いありません
 
家内は当時、ウクライナにいました。ロシア語の研修を受けながら今まさにモルドバに入国しようとしているときに阪神・淡路大震災が発生しました。テレビで様子を知った沓澤美喜から神戸に電話がありました。「テレビで見たけど、大丈夫なの、元気なの」との問いかけに、当時小学校5年生だった長男が「お母さん、大丈夫です、元気です」と答えると「安心してモルドバに初めて入国できました。もし、あの時子供からお母さん帰ってきて欲しいと言われたらモルドバ入国なかったでしょう」と後日述べています。以来約40回モルドバを訪問し、累計約100か月間モルドバに滞在することになるとは当時想像もつきませんでした。
 
それから3か月以上過ぎてから初めて神戸に戻ってきたときは落ち着いていて、とうとう家内は阪神・淡路大震災の現場を見ることなくモルドバへの支援活動を続けることができたわけです。それを今、こうして映像を通して振り返ると当時の困難を思い出して涙があふれてきました。三宗所長たちがこのような記録をセンターに残してくれるお方がいなければ沓澤美喜は永遠にモルドバのことだけしか知らない人間になっていたと思います。この映像を見た時、ライサさんは初めて、ご自分の次男が足に障害を持って生まれてきたので人生で一番の苦労をしたということを涙ながらに話してくれました。そういう共通した苦労があったから今も一緒に活動を続けていくことができることを知りました。
 
急きょ予定を変更して「人と防災未来センター」に立ち寄らせてくださった三宗所長に謝意を表します。(報告者 沓澤正明)
 

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